菊地びよ『空の根 kuu-no-ne 声の生まれるところ』
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2016年は長い翻訳に追われてあまり評を書けなかったので、ここらでまとめて書いてしまいたい。
まずは、カミーユ・ボワテル 『ヨブの話』 2016年10月1日東京芸術劇場
昨年の1番か2番くらいによかった舞台。ダンスともサーカスとも言えない孤高の路を行くボワテル。
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生活舞踏工作室(Living Dance Studio) 『メモリー』(8時間ヴァージョン)
とにかく8時間という長さが不安だったから、ペットボトルにちょっとしたお菓子を用意して劇場に行った。途中で少し抜けてコーヒーでも飲んで休んでまた見ればいいかなと軽い気持ちでにしすがもの劇場に入った。気楽に見ていられるだろうと思って、一番後ろの席にゆったりと座った。でも、驚いたことに、次に劇場を出たのは8時間後。1時間ごとの軽いブレイクの時に背伸びをしたくらいで、最後まで席を立てなかった。
文化大革命……もうすっかり彼方の歴史に埋もれているかと思っていた出来事が呼び起こされる。あれは学生運動の先駆けだったのだろうか・・・
日本であの時代の学生運動を想起するよりも強烈なタブーがあるのだろう。日本の運動は公的なものではなかったけれども、中国の文革はなんといっても公的なお墨付きをあのときは得ていたのだから。
でも、パッションは共通するものがあって、それがなんだったのか知りたくなる。
今年のF/Tでいちばん忘れられない作品。
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ジゼル・ヴィエンヌ 『こうしておまえは消え去る』
@にしすがも
まだ、公演が続いているからあんまり書いてはいけないかもしれないけれど・・・
「シンボリックな森で繰り広げられる美とエロス、死についてのドラマ」……というキャッチコピーの通りに、フェイクの森でたっぷりなシンボルらしきものが戯れるのはわかるけど。。。ドラマというわけではなくて、むしろドラマ性を否定して、シンボルとしてのみの意味を持たされた人物がぎこちなくそこにいるばかり・・・・・・そりゃあ、簡単で単純なシンボルという意味しか持てないような人間なら、いきなり暴力に走ることもあるだろね、って言いたくなるような結末。
抜け殻のような、離人症のような人物だからこそ象徴になれるというのかな? 生身の人間では生きていることの雑音が多すぎるというのかな?
美もエロスも死も、そんなもの言葉やシンボルでいくらでも体現できるけど、そんなのはニセモノでしょ。それとも、ニセモノで戯れているのがちょうどいいのかな。ホンモノは怖いから。
霧の彫刻にしてもダムタイプにしても、まるでブランド名のように使われることにとっても違和感を感じる。
なにか深遠なシンボルを抱えているかのように緩慢な動きをする人物たち。重々しい意味に満ちた象徴を理解するのは凡人には時間がかかるだろうという慈悲心からだろうか。ありがたいことだな。
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シディ・ラルビ・シェルカウイ 『アポクリフ』
2010年9月4日と5日 @オーチャードホール
シディ・ラルビ・シェルカウイの底なしの優しさ、気配りの繊細さ、それがダンスの動きに現れるのがすばらしい。これほどまでに細やかでしなやかで優しいこころとからだの彼がそこにいるということが、とてもうれしい。
『アポクリフ』って聖書外典のことで、もちろんそれが重要な意味を持つ作品を彼は作ろうとしているのだけれど、そのことは知らなくても作品のすばらしさはそこにちゃんとあるからだいじょうぶ。
首藤くんがMISHIMAの文脈を盛り込もうとしたのもわかるけれど、それは忘れても作品のすばらしさはなんらそこなわれないからだいじょうぶ。
この作品は2007年7月初演の大作『Myth(神話)』に続いて同じ年の9月が初演。両方を見ればわかるように、共通した要素があって、それは本と宗教的なもの。彼も言っていたけれど、この作品はMythの続編ということらしい。でももちろん、そんなこと知らなくてもいいわけだし、Mythがどれほどすばらしいとしても、あの作品では彼は踊っていなかったのだから、彼自身が踊っているこの作品を見られたことは幸せ。
ていねいにこの作品のことをポツポツと書いていこうと思います・・・・・・
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ささやかなイベントを行います。
もう明日なのですけれど、近くを通りかかったらのぞいてみてください。
グンナールさんは、9条の意味とノルウェーの新しい刑務所制度について、
マヤさんは、ポスト・ユートピアの話をしてくださる予定です。
ぼくは、江口隆哉さんと宮操子さんの皇軍慰問団の足跡を簡単にたどってみたいと思っています。
戦争中の(といっても太平洋戦争だけでなく日中戦争も)戦争協力活動について語るのはタブーとされている気がしますが、国家という暴力に対抗するためにも、いったいあのとき何が行われていたのか、いったいあのようなときに何が起きるのか、もうすこし素直にみてみたいと思います。
宮さんは『戦野に舞ふ』(1942年刊)でも『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』(1995年刊)でも、とても素直に語っておられます。
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今 年は、ノルウェー出身の グンナールさんと 旧ユーゴスラビア出身のマヤさんをお招きして、憲法9条を持つ日本という国が海外の人からはどのように見えるのか、何を期待するのか、危惧されることは何 か、などについてノルウェーや旧ユーゴの事情を交えながら率直に話していただこうと思います。
加藤文子のスタジオパフォーマンスと、堀切敍子ディレクションのからだとこころを感じるセッションがあります。
主催:舞木の会 実行委員:堀切敍子 西田留美可 加藤文子 坂口勝彦 中西レモン
舞木の会:「舞う木」と書いて「まいぼく」の会、9条を守る舞踊人の会 http://dance9.seesaa.net/
ゲストスピーカー
☆ グンナール・レークヴィッグ(Gunnar Rekvig)さん(左):ノルウェー(トロムソ)生まれ。アメリカで日本文化をテーマに人類学を学び、ノルウェーで9条をテーマとして哲学の修士号を取得。9条の研究を続け論文執筆中。
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ホフェッシュ・シェクター 『ポリティカル・マザー』
2010年6月25日 @彩の国さいたま
最後にすべてが霧の中で巻き戻されていくのにびっくり。フィルムの早送りで巻き戻すように、動きがカチカチと逆にたどられていって、本当に最初の切腹のシーンにまでたどりついた。いったいどういう練習をしているんだろう。
オハッド・ナハリンのバットシェバにいたということで、たしかにオハッドの動きを思い出させる
思い出させる柔らかさがあるな。このあいだのオハッドの『MAX』は、振付というよりはゆるやかに動きを楽しんでいる感じがあったけれど、この作品はぴっちりとすきまなく作られているみたい。
威圧的な音楽や人物の使い方などは、オハッドの『アナフェイズ』のパロディにも見えるけど、ポリティカル・マザーというタイトルはどういう意味なのか気になる。
そういえば、オハッド・ナハリンが「批評家へのアドヴァイス」というものをふざけて書いていた:
Ohad's Advice for Critics
この最後で、「ダンスを見るときは、国とか地域の意味を求めないように」とオハッドが書いている。オハッドもホフェッシュもイスラエル生まれであるから、どうしてもその意味を作品のなかに探そうとする人が多いのはしょうがないのだろう。ぼくもどこかにそれがないか見ようとしてしまう。もちろん、見ようとかまえて見えてきたと思えたものはかなり恣意的なものであるかもしれないので、オハッドもそれはやめてほしいと思っているのだろう。
あえてポリティカルな意味を探そうとすれば、身体を通して、しかも身体の快楽を通して主体を絡め取ろうとする生-権力の行使とでも言えるようなものがそこにはあったのかもしれない。でもそれもパロディのように、彼自身がミュージシャンとして登場する。。。
たとえば、この作品の高揚感とリーフェンシュタールの『意志の勝利』の高揚感とは通じるものがあるのだろうか。民衆の高揚感。踊りの陶酔。
フォーサイスの『Impressing the Czar』の第四部の「Bongo Bongo Nageela」の高揚感はどうなんだろう?
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ワジディ・ムアワッド 『沿岸 頼むから静かに死んでくれ』
2010年6月19日@SPAC
東静岡までとことこと各駅停車で3時間かけて行く。レバノン→フランス→ケベックと移り住んだ彼は、政治的な問題を距離をもって見つめる視点をもっているみたいだ。
沿岸 Littoral というすてきなタイトルのこの作品。レバノンを含めた中東の政治を動かす力がどれだけあるのかわからないけれど、そこに人間が生きて思いを発していたことがしるされているだけで、それはすばらしい。
死者が、とりわけ父親が、死んだのにずうっと寄り添っている・・・ヤン・ロワースの『イザベラの部屋』もそうだったけれど、両親の死はその人の人生の最大の出来事なんだろう。
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ピナ・バウシュ 『私と踊って』
いつも黒のさらりとしたスーツではにかむように挨拶をしていたピナが現れないまま拍手が鳴りやんで、もういないんだ……
きっかけはなんでもいいのかもしれない、何か得体の知れないものがからだの中でうごめいている、それは愛でも憎しみでも喜びでも悲しみでも驚きでも倦怠でも、なんでもよくて、でも、生きていることのすばらしさを、とてつもなく繊細に拾い集めていたんだろうな
ドイツ文化センターで、ドキュメンタリーをふたつ。『ワルツ』は全部見たかったな。『山の上で叫び声が聞こえた』をもう一度見たくなったな。
ナザレットさんと話した。もっともっとピナと一緒に作っていきたかったのに、いくら作っても次々と色々と出てきて、あきるどころじゃなくて驚きと喜びが尽きることがなかったのにって。ほんとうにそうなんだろうな。舞台で見るのと同じ、突き抜けた笑いがすてきなひと。
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大橋可也&ダンサーズ 『春の祭典』
20110年5月16日(日) @シアタートラム
もちろん春の祭典が行われるはずはなくて、それらしきことはほとんど起こらない。
なにもおこらない。
生贄を捧げるべき大きな存在はもう信じられなくなっているのは、そりゃそうだろうけど、でもなにも信じられなくたって日々生きていくのはいつだって同じではないかとも思う。
この喪失感は、逆になにかを期待しているから生まれる喪失感なんだろうか。
何にもなくても生きていくたくましさこそ必要なのかも。
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チェルフィッチュ 『ホットペッパー、クーラー、そして別れの挨拶』
2010年5月19日@ラフォーレ原宿
チェルフィッチュのどこがおもしろいのかうまく説明できないけれど、おもしろい。現代の若者の意識を切り取っているとか、現代の非正規雇用問題を扱っているから意味があるとはまったく思えないけれど、そういうこととはまったく別に、おもしろい。
ノイズなんじゃないかな、そこにあるのは。
言葉にも身体にもノイズがあふれかえっている。でもそのノイズをそれらしく見せているのは、ノイズをまったく許さない統制なのが不思議。
矯正と逸脱の同居の快楽なのだろうか。
靴のペンギンと、セミの、フェティッシュなまでの細部の意識の拡大が不気味に心地よいのはなんなんだろう。
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黒沢輝夫・下田栄子 舞踊公演 「まだ踊る」
2010年5月15日(日)18:00 @横浜赤レンガ倉庫
「まだ踊る」というあまりにストレートなタイトルに心がおどる。
若い頃は父や母のダンス仕込みに反発していた美香さんが、パパママのためにこんなにすてきな公演を作り上げた。
http://www.k5.dion.ne.jp/~kurosawa/
日本の舞踊の独特の歴史はようわからんけれど、うちわだけで進展していくことで満足していることが多そうな業界でこんなことができるのは驚きだ。
黒沢輝夫、下田栄子、両人のダンスはよく知っているけれど美香さんや美香ダンサーズは見たことないという人、あるいはその逆の人、そういうひとがわらわらと集まっていたようだ。ぼくは、美香さんとお父さんの「山に登る」はかろうじて見たことがあったけれど、お母さんの踊りは初めて見た。お母さんとは、公演会場や綱島のスタジオで何度もお目にかかっているし、美香さんのインタビュー記事を書いたときには、こんなことまで書いてくれたんですねと、たしなめられたこともあったけれど、踊る姿を見るのは初めて。話に聞くばかりで、もう見ることはないのかなと思っていた。
もちろん写真の中で見るような跳びはねる姿はもう見ることはできないけれど、それは80すぎのお父さんと喜寿を迎えたお母さんなんだからあたりまえ。
いつもハデなお母さんが、それをうわまわるハデな着物で、見てごらん! ってな感じで登場したのにはおそれいった。
お父さんは、負けじと金粉ショー! ああ、なつかしき金粉ショー・・・なんていう感傷にひたる前にオレを見ろ! とお父さんは観客をキッと見据えていた。
お母さんの背中のたゆたい、お父さんの繊細な手の動き、圧倒されました。ふだんは現代舞踊協会系の作品はほとんど見ないけれど、美香さんのお父さんとお母さんは別格。
発見があった。
美香ダンサーズの作品の「mode'n dance」、モーツァルトの40番でダンサーたちがせわしなく動くすてきな作品。もう何度も何バージョンも見ているけれど、今回は堀江君を筆頭にして4人だけ。大好きな作品がまたふくらんだ・・・それはいいとして、その前に、お母さんの下田栄子さんの振付作品で幅田彩加さんが踊った「闇に歌声」という踊りがあって、そこに「mode'n dance」の振りがいくつも現れていてびっくりした。
手を四角形に休息に動かして空間を切る仕草、手を顔に当てる仕草(これは冒頭の子供たちにもあったな)、それにキュッととまってタイミングをはかる動作・・・・・あ、お母さんの動きが美香さんの作品にいくつも現れているのが驚き。
美香さんの作品はパロディなのだろうか、あるいはディコンストラクション?
そのふところまで入り込んで、その論理を徹底させてしまいには破壊させてしまうディコンストラクション?
お父さんの動きにも、ああこれは美香さんの動きに通じるものがあるなあと思ったところがいくつもあった。
美香さんは現代舞踊という日本のまか不思議なダンス制度の中から生まれたデリダなのだろうか・・・
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